船橋リトルリーグ
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17境の充実が図れました。 選手の入団テストも年間4回~5回実施されました。入団希望者が多く、キャッ チボール・ランニング・遠投などで選手個々の適性を見極め、新入団選手の指 導育成に活かされるようになりました。 平成55年に全日本リトル野球協会の組織改革がありました。 大きな組織であった関東連盟が分割され、東京連盟・南関東連盟・北関東連盟・東関東連盟の4連盟となりました。東関東連盟は千葉県と茨城県で形成され、連盟の理事長には、船橋リトルリーグ出身の中野辰男氏が就任されました。 これまでの遠征範囲は広く、早朝に出発し夕方遅くの帰着で選手のエネルギーがかなり消耗していました。そんな負担も軽減されることとなりました。 3.全国選抜大会準優勝と鈴身専用球場時代(昭和56年~平成7年) 昭和56年、船橋リトルリーグの選手数は400名を超えていました。連盟からの要請もあり、リーグを二分割することになりました。 代表選手を選出する場合、1リーグより2リーグにすることにより、多くの選手に大会出場のチャンスが与えられることとなりました。 このようにして誕生したのが、船橋北部リトルリーグです。 この年は、第5回全国選抜大会が神宮球場で開催されました。初出場の船橋 リトルリーグは良く戦い決勝戦に臨みました。残念ながら岸和田リーグに惜敗、準優勝でした。 昭和57年~59年の3年間はリーグ分割の後遺症か、試合結果が思うように上がらない厳しい日々が続きました。 「勝つことだけが目的ではない」とは言うものの、フロントに対する批判やら、 監督・コーチへの雑音が多くなりました。しかし、多くの指導者は「選手」と「指導者」・「保護者」が団結し、協調しながら闘志を培って戦うことの重要性を理解していました。強い船橋・選手育成上手の船橋復活への足掛かりとなりました。 昭和60年~61年にかけ、鈴身町に新たな専用グランドが設立されました。 昭和50年から10年間使用した専用グランドは、周辺がゴルフ場となりコース の中に組み込まれてしまうので、近隣に代替地が提供されました。森林とゴルフ場に囲まれた丘の上にあり、ナショナルチーム専用とマイナーチーム専用の グランドが隣接した「鈴身専用グランド」が完成しました。そこに井戸を掘り、 1階が倉庫、2階は厨房を備えた会議室のクラブハウスが完成しました。電気や公衆電話も設備されました。グランドは高さ15m級のネットで囲われ、ベンチも両サイドに立派なものが出来ました。40台を超える駐車場も備えました。これほど恵まれた専用グランドは無い、日本一だと自負したものです。

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